大津波の伝承

末の松山に絡む伝説(宮城郡多賀城村八幡

砂金辰雄さんによる記載

1931年(昭和6年)「宮城県教育会編」郷土の伝承 第一輯(しゅう)110頁〜111頁より

 

多賀城の盛栄を極めた頃よりもっと前の頃であろうか、下千軒(しもせんけん)、上千軒(かみせんけん)とて随分と賑やかに栄えた時があった。(方八丁もその頃栄えた一圍(いちい)だと云う。)その頃、その地に住む猩々(しょうじょう)(説明;猩々;中国の、想像上の動物。猿に似ているとされ、人の顔と足をもち、人の言葉を解し、酒を好むという。日本では、赤面赤毛とされている。)が鏡が池の傍らにある酒屋に毎夕酒飲みに来たものだ。酒屋には小佐治(こさじ)といって田舎に稀な綺麗な娘が居った。小佐治はいつも鏡が池に姿をうつして化粧したと云う。猩々は小佐治に通うのだった。何時か此の事が村の若者達の知るところとなって、遂には半殺しにしてやろうと謀った。或る日例の如く酒飲みに来た猩々へ小佐治が斯(こ)んな陰謀がある事を告げた。猩々は小佐治の好意を感謝しつつ、「某月某日には必ず海潚(つなみ)がるから、そなたは末の松山へ避難するように。もし万一私が若者衆に折檻されたらあの池に入れて呉れ」とて別れた。待ち伏せしてゐた事とて若者等は猩々を酷(ひど)い目に合せて遂に殺してしまった。小佐治は言葉の通り之を池に沈めた。猩々が池と今も呼んでいる。程経てその日が来たので小佐治は疑いながらも末の松山に登って待つ間も無く大音響と共に大海潚(おおつなみ)が押し寄せて来た。此の時、下千軒、上千軒は皆流されてしまい、付近一帯は水災を被った。只一人小佐治は末の松山に残った。末の松山は波が越さなかった。末の松山波こさじとはこの意を云うのだと。この海潚(つなみ)は猩々が起こしたものと云ってゐる。

 

註(一)鏡が池の近所は清水が湧きまた酒も湧いたとも云う。

註(二)鏡が池は今は(昭和6年頃)、田圃の中に挟まれ三角形をして葦がはえている。

註(三)猩々が池は方八丁に近く今は地主が変わって田圃になっている。

註(四)末の松山、老松二本樹つている、今(昭和6年)のは前の木が枯れたその代りに植えたと云う、また鍋かけの松とも云うはこの海潚の時に流れた鍋がかゝったからとも云う。

註(五)此の伝説に異説がもう一つあるけれども今は省く。


*一部説明を書き加えていますが、ほとんど原文のままです。