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丁稚(でっち)と地震雲

「安政見聞誌」(安政末年仮名垣魯文編)よりの抜粋を読みやすいように現代語にしてみました。なお、宇佐美龍夫著「東京地震地図」新潮社発行を参照させていただきました。

この話は安政2年10月2日(1855年11月11日)の江戸の大地震のときの出来事を扱っています。話の内容は次のようなものでした。

純亭の主人が話をしてくれました。その話は次のようなものでした。『これはわたしの友人の榎本君から聞いた話ですが、駒込白山下のある質屋さんに、

丁稚(でっち)さんがおりました。その年の10月2日のたそがれ時に、その丁稚さんは2階の板の戸を閉めて戸締りをしようとしました。しばらくして、その丁稚さんは階段をおりながら大きくつぶやくように次のように叫ぶのでした。「今晩、必ず地震の心配があります。それも振動が強いです!」と。それを聞いた番頭さんは、聞く間もなく「不吉なことを言うやつだな。だまりなさい!」とさんざん叱って懲らしめました。それを、そのままにしておきましたが、その夜に大地震が起きました。その天災で家や蔵を破損してしまいましたが、家の者たちはかろうじて災難をまぬかれて一同は無事でした。

しかし、7日間の野宿をせざるを得ません。それから壊れた家を修繕し、みんなで家にもどることができるようになり、ようやく安心することができました。その後で番頭さんは、先に丁稚さんが言ったことを思い出し主人にこれこれのことを告げるのでした。主人も不思議に思い、丁稚さんを招いて問い尋ねるのでした。丁稚さんは次のように答えました。「僕の父は信州の人で、いつも語っていたことは善光寺開帳のときに起きた地震の日の夕方に、西方に白雲が霞みのようにたなびき、また東の方に藷(つくねいも)のような雲が出ていました。その夜にその地方は大地震でした。それからしばらくして、元のような雲が東西に出ました。それで父は「これは必ず揺れ返し(大きな余震)があるに違いない」として家財を外の広いところに運び、わが身は竹林にひそんでいましたところ、はたしてまさにその夜も大地震がありました。そのように聞いて忘れずに覚えていましたが、あの2日のとき、その雲が現れました。それで思わず言ってしまったのです。」』というお話でした。「夫子(孔子の尊称)は童謡を信じ、班固(史書を記した人)は巷談(町や村でうわさになっている話)を因とす(…に基づくの意)。俗説(世間で言い伝える説)も捨てるべきではない」と申します。まして実施の現証ではないでしょうか。野夫(いなかおやじ)の中で功をあげた人とはこれらの人たちのことではないでしょうか。

時代考証ですが真実味がありますか?

まずこれらの話が真実性があるかどうかを確認してみましょう。

善光寺地震とは1847年5月8日(弘化4年3月24日)、夜の10時ごろの大地震で、マグニチュードは7.4といわれています。

当日は晴天でした。そして当日善光寺とその周りの宿屋は御開帳のため大勢の参拝客で、いっぱいでした。震源地は長野市直下あたりでした。

余震は松代藩内で翌日にかけて大小80回以上感じられ、その後1年以上続いたといわれています。この少年が善光寺地震について述べていることは正しいでしょうか。「善光寺開帳のときのその夜に起きた」と述べていることは歴史的に正しいです。また当日は晴天と述べられていますので、雲が現れることがあっても不思議ではありません。また安政2年の大地震のときに、この丁稚さんが夕方見たときの江戸の空の天気はどうだったでしょうか。古文書の「安政二乙卯歳地震之記」に安政地震当日の天気について、次の記録があります。「冬十月二日壬申、朝小雨、昼午時(午前十二時ごろ)休む。夕時、晴れ」とあります。ですから昼には雨が上がって、夕方には青空や太陽が見えたと考えられます、丁稚さんは夕方の雲の観察ですから十分目撃できたことでしょう。

また駒込あたりの地震の被害について城東山人は次のように述べています。「今度の地震、山川高低の間、高地は緩く低地は急なり。その体、青山、麻布、四谷、本郷、駒込辺の高地は緩にて、御曲輪内、小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川辺は急なり」とあります。ですから、駒込は比較的被害が低地や埋立地などに比べて被害が少なかったようです。この質屋さんも、1週間の野宿をしたものの修繕してもとの家に住めるようになったと述べていることと合致するように思えます。

年齢的に問題はありませんか?

この安政の江戸の大地震は善光寺地震から約8年後に起きています。もし丁稚さんが6歳から8歳ころに善光寺地震を経験していたなら、江戸での大地震の経験したときの年齢は14歳から16歳ごろでしょう。話は変わりますが、服部時計店の創始者であられる服部金太郎氏(1860年生まれ)は、13歳で東京京橋の洋品問屋にまず2年間丁稚奉公しさらに別のところでまた2年間丁稚奉公をされたそうです。ですから13歳〜16歳頃まで丁稚として服部氏は、奉公されたことになります。人によって状況が違いますから丁稚さんすべてに当てはめられませんが、この大地震を2度経験された丁稚さんの年齢や起きた出来事に関しては今のところ矛盾するものはありません。

揺れ戻し(余震)はいつありましたか?

善光寺地震の揺れ戻し(余震)の出来事についてですが、余震が1年以上続いたとの史実からその中の一つの地震であった可能性があります。持ち合わせの資料ではどの余震の地震かはわかりません。

丁稚さんとそのお父さんが見た雲(地震雲)とはどんなものでしたか?

問題は藷(つくねいも)という字です。つくねいもは広い意味で山いもの一種ですが、一般に大和イモ、伊勢イモ、丹波のヤマノイモと同じ仲間で、長めでなく手のこぶしのように丸みがかったものをさして言います。これらは主に西日本で広く栽培されています。この雲がどんなものであったかを知るための他の資料があります。それは上記記載の「安政二乙卯歳地震之記」の先ほどの天候の変化の記載の続きでこの雲らしきものを次のように表現しています。
「同夜空に叢雲(ソウウン;群がり集まった雲)旋転して纏(マト)い(まきつく、またはからみつくの意)、甚(ハナハ)だ暗澹(アンタン)(うす暗くすごみを感じさせるさま)たるものであった。その雲影は怪異(カイイ)(あやしく不思議なもの)で恐ろしく、亥(イ)の時(午後十時ごろ)過ぎ突如大地震が襲い・・・」とありました。この表現は丁稚さんが同日夕に見たであろう雲ときっと同じものをさしていたとみてさしつかえないでしょう。この雲の表現は「黒く重い上から押し迫って来るようなそして回転するような雲の動きで、怪しげな恐ろしさを感じさるもの」でした。丁稚さんが見た雲の表現の「つくね芋」という表現は「黒く丸いつくね芋」を下から見た感じでしょうか。あるいは丸い芋をすぐそばで横から観察したものに似ていたかもしれません。
また関東大震災の直前と直後に撮られた雲の写真では黒くて重い雲が出ていました。また地震の直前に出る雲はおおむね重々しい雲や、竜巻雲などが出るといわれています。もしそうであれば丁稚さんが見た直前の雲はおそらく長くたなびく雲ではなく、やはり丸くて黒いつくね芋のような重々しく、圧力を感じるような雲であった可能性が強いと思われます。

下記の画像はグーグルの画像から引用させていただいたものです。共に「つくね芋」の画像です。


2003年12月20日笠原修平筆記する。
2004年2月9日一部修正。2004年2月23日改訂。;2010年3月22日一部修正追加記載。
2011年2月7日追加修正記載しました。